三島海雲(28歳)
文学寮時代(前列右:海雲)
「カルピス」の生みの親・三島海雲(かいうん)は、1878(明治11)年7月2日、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。
西本願寺文学寮で学んだ後、英語の教師になった海雲は、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入しましたが、入学後間もなく、大学から中国へ渡ることをすすめられ、1902(明治35)年、当時日本の青少年の憧れの地であった中国大陸に無限の可能性と夢を求めて渡っていきました。
1章 「国利民福」の精神
酸乳との出会い
日華洋行
内モンゴルにて(左:海雲)
中国で教師をしていた後、日華洋行という雑貨商の事業を行なうことになりました。あるとき、仕事で北京から内モンゴルに入った海雲は、そこで「カルピス」の原点である酸乳と出会いました。当地の遊牧民たちが毎日のように飲んでいた酸っぱい乳をすすめられるまま口にしたところ、そのおいしさと健康効果に驚きを受けました。長旅ですっかり弱っていた胃腸の調子が整い、体も頭もすっきりしてきたのです。その酸っぱい乳が乳酸菌で発酵させた“酸乳”だったのです。
酸乳を日常的に摂取しているモンゴル民族のたくましさに驚き、自らも酸乳の健康への効果を体験し、その力を実感しました。
乳酸菌に着目し、商品化
「醍醐味」説明書
「醍醐味」分析報告書
中国での事業を手放し、1915(大正4)年に帰国した海雲は、ある時、日本ではやりはじめていたヨーグルトを大阪のミルクホールで試食する機会がありました。
そのヨーグルトがあまり美味しくなかったことから、海雲は、ヨーグルトよりもおいしくて、今までにない健康で体に良いものを多くの人に提供しようと思い、内モンゴルで製法を学んだ酸乳の研究を重ね、翌1916(大正5)年に、乳酸菌で発酵させたクリームを商品化した「醍醐味」を発売。さらに「醍醐味」の製造過程で残った脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」を発売しました。
日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の発売
発売当時の「カルピス」
当時の海雲
1917(大正6)年10月には、生きた乳酸菌入りキャラメル「ラクトーキャラメル」を発売しました。しかし、「醍醐味」「醍醐素」「ラクトーキャラメル」とも、原料となる牛乳収集の困難さや商品が生菌だったこと、キャラメルの溶解などにより失敗に終わります。
そのなか、「醍醐素」を改良したおいしく体に良い飲み物として開発したのが、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」でした。海雲は、「カルピス」の本質は、“おいしいこと”、“滋養になること”、“安心感のあること”、“経済的であること”の4つだと言っています。1919(大正8)年7月7日の発売以降、「カルピス」は時代を経て、やがて“国民飲料”として愛される商品へと成長しました。
その一方で、海雲は、その生涯をかけて『国利民福』への思いをつらぬきました。『国利民福』-国家の利益となり、人々の幸福につながる事業を成すこと。それは、海雲の生涯をかけた目標でした。
2章 一流の人物との交流
内モンゴルで酸乳と出会うまで、またその後、日本に戻ってからも海雲の人生はきわめて多くの人々に恵まれました。西本願寺文学寮で教わって以来の交流となった杉村楚人冠(明治末期から昭和初期に活躍した大ジャーナリスト、朝日新聞記者)や下村海南(元朝日新聞副社長)、緒方竹虎(元自由党総裁)、石井光次郎(元衆議院議員)、土倉龍治郎(国内屈指の山林業)、羽田亨(元京都大学総長・東洋学者・歴史学者)、高嶋米峰(宗教家・元東洋大学学長)、与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめとする、ジャーナリスト、学者、政治家、宗教家、実業家、資産家など多岐にわたる分野のいずれも一流の人物と海雲は親しい交流をもちました。
「三島さんは何事によらず、こうしようと思ったことには熱心だ。それが人の心を打つ。それからすこぶる正直である。それでは人は三島さんを応援したくなる。一言でいえば三島さんの人徳ということです。」
当時海雲と関わりをもち、後に日本石油(株)社長となった栗田淳一はこう語っています。
各分野の一流の人物との親交のあった海雲は、すべてのことに関して、常にその分野の専門家の意見を聞くことを信条としていました。
3章 アイデアマン
「カルピス」の生みの親である三島海雲は、卓抜なアイデアマンでもありました。
「広告の狙いは、商品そのものを売ることではない。企業体のイメージを一般大衆の心のなかに送り込むことである。」
海雲は、『なるほど、「カルピス」を販売する会社は立派なことをする会社だ』という好印象として受け取られ、信頼を勝ち取ることこそが広告の真の目的だと考えていました。
「初恋の味」のキャッチフレーズ
「初恋の味」の広告
(大正12年:伊原宇三郎 画)
「初恋の味」初めての広告
(大正11年)
「カルピス」のキャッチフレーズ「初恋の味」は、1920(大正9)年、三島海雲の文学寮時代の後輩である驪城(こまき)卓爾が『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。これで売り出しなさい』と提案したことがきっかけでした。大正9年当時といえば、“初恋”という言葉さえはばかるような時代だったため、海雲は、一度は『とんでもない』と断りました。
しかし、また驪城は海雲を訪ね、『「カルピス」はやはり「初恋の味」だ。この微妙・優雅で純粋な味は初恋にぴったりだ』とすすめました。海雲は、『それはわかった。だが「カルピス」は子どもも飲む。もし子どもに初恋の味ってなんだと聞かれたらどうする』と言うと、驪城は『「カルピス」の味だと答えればいい。初恋とは、清純で美しいものだ。それに、初恋ということばには、人々の夢と希望とあこがれがある』という言葉に海雲も納得し、1922(大正11)年4月の新聞広告にキャッチフレーズとして使用したのが始まりです。
当初は、世論を二分するほど話題になりましたが、好景気で世の中は明るく、このモダンなキャッチフレーズは世情にマッチし、またたくまに日本中に広がっていきました。
大衆参加の広告活動
「空中マラソン競争」広告
当時の広告・宣伝活動の一つに、動物愛護協会とタイアップで実施した伝書鳩レース(1922年)があります。富士山頂から東京・日比谷公園まで100羽の伝書鳩を飛ばし、その所要時間を当てるクイズ懸賞でした。動物愛護運動の一端を担う意義を持つこのイベントには、政治家など著名人も数多く参加し大好評を博しました。
他には野口雨情、西条八十、北原白秋、葛原茲と当時人気のあった童謡詩人を選者にし、小学生からの童謡を募集しました。この童謡募集には約2万3,700編の応募がありました。
また、日比谷公園において開催した9m四方の大きな碁盤をつくった囲碁大会は、娯楽の少なかった時代に人々の楽しみを提供したいと考えた海雲の発想から生まれたもので、大きな人気を呼び、当時の棋士の協力を得て成功を収めました。
募集童謡の選者たち(前列左より、西条八十、葛原茲、野口雨情、北原白秋。後列左:海雲)
日比谷公園囲碁大会
欧州で募集したポスターデザイン懸賞
1等のデザインポスター
A・イェーネ(独)
2等のデザインポスター
M・ビットルフ(独)
肉筆ポスター展覧会
1923(大正12)年には、第1次世界大戦後のインフレに苦しむドイツを中心とした欧州の商業美術家救済事業として、「カルピス」の宣伝用ポスターデザインの公募を行い、各国から計1,400点を超える作品が集まりました。
このアイデアは、美術家たちの救済策であると同時に、欧州に比べて格段に遅れていた日本の商業美術界に新風を吹き込もうとしたものでした。1等賞は500ドル、2等賞は200ドル、3等賞は100ドルとし、入賞以外の応募作品も日本で公開し、競売にかけて代金を応募者に送りました。これらの作品の数々は、東京・大阪・福岡・福井・石川で行なわれた展覧会でも大きな反響を呼びました。
なお、長年にわたって愛されてきた“黒人マーク”(1990年に使用を中止)のデザインは、この時に3等に入賞したドイツ人のオットー・デュンケルスビューラーという著名な図案家の作によるものでした。
4章 一粒の麦になって
海雲は生涯にわたりいくつもの場面で「国利民福」を実現する精神、すなわちホスピタリティを発揮しました。
関東大震災での一杯の「カルピス」
1923(大正12)年9月1日に関東地方を襲った関東大震災。焼け野原と化した東京で飲み水を求める人々に、海雲は、冷たい「カルピス」を配って歩きました。
当時の状況を海雲はこう語っています。
『その時私がいた山手方面は水が出たので、飲み水に困っている人々に水を配ってあげようと考えた。そのとき、せっかく飲み水を配るのであれば、それに「カルピス」を入れ、氷を入れておいしく配ってあげようと考えた。いまこそ、日頃の愛顧にこたえるときだと思ったからである。幸いなことに、工場には「カルピス」の原液がビヤ樽で十数本あった。これを水で6倍に薄め、それに氷を入れて冷やして配ることにした。金庫のあり金2千円を全部出して、この費用にあてた。さて、配る方法である。そのころ、トラックは1日1台80円でチャーターできた。しかし震災のあとだけに、車は逼迫していたが、何とか4台のトラックをかき集めてきた。そして、翌日の9月2日から東京市内を配って回った。私たちの「カルピス」キャラバン隊は、いたるところで大歓迎を受けた。上野公園に避難していた人々などが、黒山を築いて私たちを迎えてくれた。』
財を投じて結成した“「カルピス」キャラバン隊”が手ずから配った一杯の「カルピス」は多くの人々に生きる力を与えました。
子どものすこやかな成長を願う、ひなまつりプレゼント
「カルピス」ひなまつりプレゼント(平成27年)
また、現在にも受け継がれている“「カルピス」ひなまつりプレゼント”も海雲が始めたものです。これは、子どもたちに「白酒に似た白い色の『カルピス』で乾杯し、楽しいひなまつりを過ごしてほしい」と願って、全国の幼稚園・保育園の園児たちに「カルピス」をプレゼントする取り組みです。現在では、園児一人に一杯の「カルピス」とミニ絵本を配布しており、2015(平成27)年で51回目を迎えました。今まで1億1千人以上の子どもたちが、ひなまつりに「カルピス」で乾杯しています。
全財産を投じた三島海雲記念財団
学術奨励金贈呈式
常に「国利民福」を目指してきた海雲は、1962(昭和37)年12月、全財産を投じて「三島海雲記念財団」を設立しました。財団設立に際して、海雲は、『私が今日あるのは、それは私の先輩、友人、知己、さらには国民大衆の方々の「カルピス」に対する惜しみないご声援によるところのものであると思った。したがって私の得られた財物は、ひとり三島海雲の私するものではない。あげて社会にお返しすべきものである。そして、お返しする方法として、財団を設立することが望ましいとした』とあります。
そこで、自然科学のみでなく、それを支える良識すなわち人文科学の分野の研究を含めて助成し、これらの研究成果を応用して人類の福祉に寄与することを設立の趣旨としました。
そして海雲は、自らを「一粒の麦」にたとえました。「私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及にあり、広野にまかれた一粒の麦になりたい」-それが、海雲の財団設立に託す思いでした。
三島海雲略歴
| 1878年 7月2日 | 大阪府豊能郡萱野村(現・大阪府箕面市)に生まれる |
|---|---|
| 1893年 | 西本願寺文学寮(京都)に入寮 |
| 1899年 | 文学寮を卒業、開導中学(山口県)の英語教師として赴任 |
| 1901年 | 仏教大学3年に編入学 |
| 1902年 2月 | 仏教大学を中退して北京に渡り東文学舎に寄宿 |
| 1903年 10月 | 土倉五郎と北京で雑貨貿易商「日華洋行」を設立 |
| 1904年 12月 | 土倉四郎の依頼を受け軍馬調達のため内モンゴルに入る |
| 1908年 7月 | 内モンゴルに入り克什克騰旗(ケシクテン)において酸乳を知る |
| 1915年 | 春、中国におけるすべての事業を手放して帰国 |
| 1919年 7月7日 | わが国初めての乳酸菌飲料「カルピス」発売 |
| 1957年 10月30日 | (社)発明協会より特賞を受賞 |
| 1959年 1月14日 | 紺綬褒章を受章 5.3黄綬褒章を受章 |
| 1960年 3月 | 三島海雲翁顕彰碑、築地本願寺和田堀廟所境内に建立 |
| 1962年 12月24日 | (財)三島海雲記念財団を設立 |
| 1965年 4月29日 | 勲三等瑞宝章を受章 |
| 1974年 12月28日 | 死去、正5位を追贈される |
| 1976年 10月14日 | (株)電通より広告功労者として顕彰される |